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三船敏郎 -TOSHIRO MIFUNE- | ||||
フリガナ | ミフネ トシロウ | |||
本 名 | 三船敏郎(同じ) | |||
生年月日 | 1920年4月1日 | |||
没年月日 | 1997年12月24日(77歳) | |||
ボディサイズ | 身長172cm・体重73kg・靴のサイズ26cm | |||
趣味・特技 | 乗馬・射撃・剣術 | |||
嗜好 | <食事> | 中国料理、和菓子他 | ||
<お酒> | ビール、ワイン、ウイスキー他 | |||
<煙草> | 愛煙家(ダンヒル、カルテェ他洋煙多し) | |||
洋服 |
スーツはバーバリー他 Yシャツ、ネクタイはランバン他 靴はバリー他 |
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車 |
1952年型MG-TDを45年間愛用。 その他、米映画「グランプリ」出演の際買い求めた1962年型ロールスロイス・シルバークラウドなど多数 |
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船 | モーターボートを所有。 | |||
1920年 | 中国・山東省青島で貿易商、写真業を営む三船徳造の長男として生まれる。(4月1日) | |||
1925年 | 5歳 | 一家は大連に移り住み、父・徳造は「スター写真館」を開業。 | ||
1934年 | 14歳 | 大連中学校に入学。 | ||
1938年 | 18歳 | 同校卒業。 | ||
1940年 | 20歳 | 徴兵・甲種合格となり満州陸軍第七航空隊に入隊。航空隊では写真の経験・知識があるということから写真部に配属され航空写真を扱う。 | ||
1941年 | 21歳 | 満州陸軍第八航空教育隊に転属、隊が引き揚げの為、滋賀県八日市に移る。 | ||
1945年 | 25歳 | 熊本県上益城郡城南町隈乃庄の特攻隊基地に配属、この地で終戦を迎える。 | ||
1946年 | 26歳 | 東京の東宝撮影所撮影部にいる先輩(大山年治氏)を訪ね、カメラマン助手の仕事を依頼。履歴書を提出したところ、「何かの手違いで」東宝第一期ニューフェイス募集に廻されていたため、6月に行われた面接を受けた。映画監督の山本嘉次郎氏の目に留まり、役者として補欠採用される。 | ||
1947年 | 27歳 | 「撮影部の空きを待っている」という三船を映画監督の谷口千吉氏が説得し、映画「銀嶺の果て」(監督:谷口千吉氏、脚本編集:黒澤明氏)で役者としてデビュー。 | ||
1948年 | 28歳 | 黒澤明監督による「酔いどれ天使」の主役の一人に抜擢され、この作品の大成功により一躍人気が沸騰する。 | ||
1950年 | 30歳 | 東宝第一期ニューフェイスの同期・吉峰幸子と結婚。(1月5日) | ||
1951年 | 31歳 | 「羅生門」(黒澤明監督)がベネチア国際映画祭のグランプリを受賞。国際的俳優の第一歩を踏み出す。 | ||
1952年 | 32歳 | ブルーリボン男優主演賞を「馬喰一代」(木村恵吾監督)他の演技で受賞。 | ||
1953年 | 33歳 | 戦後初の海空戦映画「太平洋の鷲」(本多猪四郎監督)に出演。 | ||
1954年 | 34歳 | 「七人の侍」(黒澤明監督)公開。 | ||
1955年 | 35歳 | 「生きものの記録」(黒澤明監督)で初の老け役に挑戦。 「宮本武蔵」(稲垣浩監督)3部作の第1部が米アカデミー賞の外国語映画賞を受賞。 |
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1957年 | 37歳 | 「蜘蛛巣城」「どん底」(黒澤明監督)公開。 | ||
1958年 | 38歳 | 「隠し砦の三悪人」(黒澤明監督)公開。 毎日映画コンクール男優主演賞を「蜘蛛巣城」「どん底」(黒澤明監督)他の演技で受賞。 |
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1959年 | 39歳 | 前年主演の「無法松の一生」(稲垣浩監督)がベネチア国際映画祭のグランプリを受賞。 | ||
1960年 | 40歳 | ベネチア国際映画祭開会式に出席。 「悪い奴ほどよく眠る」(黒澤明監督)公開。 |
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1961年 | 41歳 | メキシコ映画「価値ある男」で初の海外作品主演。(メキシコ人農夫役) ベネチア国際映画祭主演男優賞を「用心棒」(黒澤明監督)で受賞。 |
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1962年 | 42歳 | 三船プロダクションを設立し代表取締役に就任。 ブルーリボン男優主演賞及び日本映画記者会賞最優秀男優、キネマ旬報男優賞を「用心棒」(黒澤明監督)他の演技で受賞。 「椿三十郎」(黒澤明監督)公開。 |
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1963年 | 43歳 | 三船プロ第一作(宝塚映画と共同製作)、「五十万人の遺産」を初監督。 「天国と地獄」(黒澤明監督)公開。 |
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1965年 | 45歳 | 専属契約を結んでいた東宝から独立。 黒澤監督との最後の作品「赤ひげ」で2度目のベネチア国際映画祭主演男優賞を受賞。 |
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1966年 | 46歳 | 東京都世田谷区成城にスタジオとオープンセット完備の三船プロ撮影所を建設。 ブルーリボン男優主演賞及び日本映画記者会賞最優秀男優を「赤ひげ」の演技で受賞。 三船プロ単独自主制作第一作「怒濤一万里」(福田純監督)公開。 |
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1967年 | 47歳 | 三船プロ テレビ映画シリーズ第一作「桃太郎侍」(NTV)の製作開始。 米映画「グランプリ」(ジョン・フランケンハイマー監督)に出演。 |
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1968年 | 48歳 | 三船プロ「黒部の太陽」(熊井啓監督)を石原プロと共同で製作・公開(出演も)。 芸術選奨文部大臣賞を「上意討ち」(小林正樹監督)他の演技で受賞。 日米合作「太平洋の地獄」(ジョン・ブアマン)に主演。 |
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1969年 | 49歳 | キネマ旬報男優賞を「黒部の太陽」(熊井啓監督)他の演技で受賞。 | ||
1970年 | 50歳 | テレビCM「男は黙ってサッポロビール」に出演。 | ||
1971年 | 51歳 | 仏映画「レッド・サン」(テレンス・ヤング監督)でアラン・ドロン氏、チャールス・ブロンソン氏らと共演。 | ||
1972年 | 52歳 | 三船プロ製作のテレビ映画シリーズ 「荒野の素浪人」(NET)出演。 | ||
1975年 | 55歳 | 米映画「ミッドウェイ」(ジャック・スマイト監督)撮影開始。チャールストン・ヘストン氏、ヘンリー・フォンダ氏 らと共演。山本五十六役。 | ||
1976年 | 56歳 | 「剣と風と子守唄」(日本テレビ)に出演。 | ||
1978年 | 58歳 | 「江戸の鷹」(テレビ朝日)に出演。 | ||
1979年 | 59歳 | 米映画「1941」(スティーブン・スピルバーク監督)に出演。 | ||
1981年 | 61歳 | 「三船芸術学院」を開校。俳優、タレントの養成を行う。 | ||
1983年 | 63歳 | 米シカゴで「三船敏郎フェスティバル」が開催される。(翌年ニューヨークでも開催) | ||
1986年 | 66歳 | 紫綬褒章を受賞。 米カリフォルニア大LA校から名誉学位に匹敵するUCLAメダルを受ける。 |
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1987年 | 67歳 | 「男はつらいよ・知床慕情」(山田洋次監督)に出演。 | ||
1988年 | 68歳 | ブルーリボン助演男優賞及び毎日映画コンクール男優助演賞を「男はつらいよ・知床慕情」(山田洋次監督)の演技で受賞。 | ||
1989年 | 69歳 | 平成元年/フランス政府から芸術文芸勲章を受章。 「千利休 本覺坊遺文」(熊井啓監督)公開。 |
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1990年 | 70歳 | 米サンフランシスコのさくら祭りパレードに参加。 | ||
1991年 | 71歳 | 仏パリ・シャンティ競馬場で開かれた大日本弓馬会の公演に参加。 | ||
1992年 | 72歳 | 心筋梗塞で倒れ一ヶ月間入院。 | ||
1993年 | 73歳 | 勲三等瑞宝章を受章。 | ||
1995年 | 75歳 | 日本アカデミー賞会長特別賞を京マチ子さん、山田五十鈴さん、市川右太衛門氏らとともに受賞。 遺作となる「深い河」(熊井啓監督)が公開。 |
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1997年 | 77歳 | 多臓器不全のため、東京三鷹市の病院で死去。(12月24日) | ||
1998年 | 東宝、黒澤プロ、三船プロの合葬で、東京・青山葬儀場で告別式を行った。(1月24日) | |||
※年齢はあくまで目安です。 |